第58話  地獄のサーキット

 

「起きろ! てめーら!」

竹刀の洗礼で文字通り叩き起こされる二人。

「ギャー! 押ー忍!」

「オーノー!」

時間は午前5時。
8月の早朝はすでに明らんでいた。

「第38回全日本大会まで残すところ3カ月! 今日からはさらなる地獄を味わってもらうぜ!」

 

 

自転車にまたがり、道場を出る相馬。
手には竹刀。

「目的地は近くだから、てめーらは走って付いて来い!」

 

そんな相馬の言葉に従い、太郎とロベルトは下は道着、上はTシャツ姿で走り出した。

「おい、ロべ。一体、どこでどんな稽古をやるんだろうな?」

「見当もつかないネ。でも、さらなる地獄って言うからには、相当な稽古なんじゃないかナ。オーマイガッ」

そんな会話をしているが、二人には余裕が漂っていた。
一週間で拳立てを1万回以上やらされたのだ。
それ以上の地獄なんてあるのだろうか? 

 

 

相馬はすぐに大きな国道に入りひたすら進む。

すでに小一時間は経っただろうか。

「お、おい、ロべ! 俺たちはいつまで走らされるんだあ! 環状七号線を一周するつもりか?」

「ボ、僕、もう、駄目ネ」

身体の大きロベルトはかなりきつそうだ。

「ま、まさかこの走り自体が稽古なのかもっ!」
 

 

しばらくして、一行は大きな川沿いに辿り着いた。
堤防は長く、きれいに整っていた。
午前7時前で、ジョギングや犬の散歩をしている人たちがちらほら。

「ご苦労! 身体が温まったところで柔軟でもやっとけや!」

「はあはあ、押ー忍」

「……ノー」

 

太郎は身体が柔らかいほうではなかったが、入門前と比べるとかなり柔らかくなった。
今では開脚で180度に到達しそうなところまできた。

「太郎、凄いネ。完全な開脚まで10cmくらいじゃない?」

「ああ、だいぶやわらかくなったよ。なんたって俺の必殺技は上段だからな。開脚くらいできなくちゃな」

比べてロベルトは柔軟が苦手なようだ。
開脚まではほど遠く、身体の固さについては、いつも相馬に怒鳴られている。
太郎と同時に入門し、同じような稽古をしているのだが、体質の違いというものは確かにあるようだった。

 

相馬は竹刀を地面に打ち付けた。

「全日本までの3カ月! 日曜以外の毎日やってもらう稽古を発表するぜ!」

息をのむ二人。

「名付けて『3分間ダッシュ×無限大』だ!」

絶句する二人。

「お、押忍、相馬先輩。無限大とは?」

「やる量は俺の気分次第で変える。教えねえ。教えると計算して力抜くだろお!」

「オーノー!」

「試合で絶対的に必要なのはスタミナだ! 本戦3分、延長戦2分、再延長戦2分! このくらいはラッシュし続けられるようにならねえとな。今のお前らじゃ本戦を戦うだけでやっとだろ?」

「押忍、ビックミットの稽古をかなりのラウンドこなしてますが、あれじゃ駄目なんですか?」

「ふ、ビックミットもキツいが、なんだかんだいって、自分で身体の使い方を調整できるからな。腕が疲れたら蹴り。上段が上がらないと下段。それじゃあ、質の高い稽古とは言えねえ」

相馬はジェスチャー付きで熱く語る。

「だが、ダッシュはそうはいかねえ! 走るしかねーからな! 単純ゆえに誤魔化しはできねえぞ」

「確かに……」

「さてと、身体が冷えねーうちに始めるか。立てい!」

 

二人は堤防の上に並ばされた。
相馬は自転車にまたがる。

「こっからとにかく3分間ダッシュだ! 行くぜ!」

二人の心臓が高鳴る。
3分間全力で走り続けるとは?
どれだけ苦しいのか?

 

「スタート!」

相馬の合図で走り出す太郎とロベルト。
相馬は自転車で二人を追う。

「太郎いいぞ! ロべも遅れんなよ!」

太郎は勢いよく飛び出した。

「(おっ、意外にいけるか?)」

 

しかし、そんな余裕はすぐに無くなった。
だんだんと失速していった。

「おらー! 糞太郎! もうへばりやがったかあ! まだ30秒しか経ってねえぞ!」

「(このまま2分以上もダッシュ? 無理だ。学校でやったのは50mや100mだぜ! 20秒以下の世界だ。それを3分? 死ぬ)」

「太郎! ジョギングじゃねーんだぞ! ちゃんと走らんかい!」

ロベルトはすでにかなり後れを取っている。

「ロべー! 貴様は舐めてんのか!」

「ノー!」

 

 

3分間を走り終えた時には、二人とも倒れこみ、荒く呼吸をするのみだった。

「まあ、初めはこんなもんか。ちょっと休んだら次いくぜ!」

「ゼーゼー」

「はあはあ」

「……てめーら、返事は?」

「押ー忍」

「お、押忍」

 

 

『3分間ダッシュ×無限大』
初日は10本だった。
当然、道場に戻ってもキツイ稽古が待っていた。

いつもは、一日の疲れを癒しつつ、騒ぐ銭湯だが、今夜は身体を洗う気力すら無くなっていた。
屋外にある、ぬるめの檜風呂につかる三人。

「……」

「おいおい、一日目から疲れ果て過ぎじゃねーの?」

「……押忍、先輩。全日本の選手達はこんなキツイ稽古をしてるんですか?」

太郎の問いに、相馬はふふっと鼻で笑った。

「実際……やってねえ、と、思う。今日みたいな、愚直なキツイ練習はな」

「え? そうなんですか?」

「おう。実力が付いて、結果が出せるようになるとな、稽古内容がまとまってくるのよ。自分が必要だと思う稽古にな。段々とルーチン化してくる。そうなってくると、自然とキツイ、単純な稽古はやらなくなってくる。そうなるとどうなると思う?」

「お、押忍、どうなるんでしょうか?」

「成長が止まんだよ。全日本でも、毎年初日で敗退するとか、毎回ベスト16止まりとかな。やってることは、普通の選手よりはキツイが、よりキツイ稽古はしなくなるんだな」

「なるへそ」

「お前らにはそうなって欲しくないんだ。結果が出ても、よりキツイ、内容のある稽古が出来るように。そして、自分で考えて、一人でも稽古出来るように……例えば、俺がいなくなってもな」

太郎はぎょっとした。

「せ、先輩。先輩がいなくなるなんて。縁起でもない。そんなこと言うなんて相馬先輩らしくないじゃないですか」

「ふ、別に死ぬとか、そーゆー話だけじゃねーよ。人間は複雑な動物だかんよ。好きとか憧れだけじゃ繋ぎとめられないなにかが起こることもある」

太郎は目を丸くした。相馬からこんな繊細な話が出るとは。
ちゃちゃを入れると話が中断しかねないので、黙って聞くことにした。

「例えばな、俺は今、尊敬していた神館長の下で空手をしてねえ。目標である不動先輩の指導も受けてない。別に嫌いになった訳じゃねえ。出来れば直接指導して欲しいぜ。でも今はその環境にない。……な、いろいろなんだよ、人間は」

「お、押ー忍」

黙って聞いていたロベルトは大きく手を広げた。

「男と女の世界みたいネ。ラブの世界ネ」

「ロべ! てめー、今の話のどこに女の話が出てきたんだよ! くだらねー例えを入れるんじゃねー!」

ロベルトは檜風呂から放り出された。
久しぶりに相馬から真面目な話が聞けると期待していた太郎は、がっくりした。

 


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