第32話  選手としてもう一度

 

「ふえっ!」

太郎が目を覚ますと、窓から薄明りが差しこんでいた。
時計を見ると、午前四時。

「頭がいたい……昨日しこたま飲まされたからなあ」

ひそかに相馬は、ロベルトのリュックに数本のワインを入れておいたらしい

太郎は、元来アルコールに弱い体質である。
飲めても甘い、カクテル、サワー程度。
そんな太郎だったが、何が美味いのかわからないワインを相馬にしこたま飲まされたのだった。

当の相馬も、太郎らほどではないにせよ、相当量の飲んでいた。

太郎の頭痛の原因となった相馬は大いびきで床に転がっている。
相馬の右足の下からロベルトの顔が覗いている。

「今日が本番ってのに。やっぱ凄い人だなあ」

ふっと目が覚めた太郎だったが、横になれば、すぐにでも夢の世界へいざなわれそうだ。
尊敬する先輩の晴れの舞台、全日本大会決勝日。
二度寝は出来ないと踏んだ太郎は、頭を冷やすため、こっそりと宿泊場を出て、外へ散歩に出かけることにした。

入口まで来ると、太郎はしまったと思った。
入口には、総本山の内弟子が張っているのだ。

「あちゃあ!何、旅行気分になっちゃってたんだろ。ここは、神覇館総本山だったなあ」

どうしようかと迷っていたが、足は止まらず、入口まで来てしまった。
そこには、やはり部屋の電気の付いた管理人室がある。

こっそりと中を覗くと、ジャージ姿の内弟子が空手の本を読んでいる。
百瀬だった。
百瀬はすぐに太郎に気付いた。

「……あなたは確か、相馬先輩のお弟子さんの」

百瀬は、そう言いながら軽く会釈をする。

「水河です。ちょっと外の空気を吸いたいと思ったんですが、駄目ですよね」

太郎は頭をかきながら百瀬を頭を下げる。

百瀬は、読んでいた本にそっと付箋を入れ、ゆっくりと立ち上がった。
そして、右手で入口のドアを開けた。

早朝の風が、山間部からの澄んだ匂いが太郎の鼻をかすめる。

「夜明けの総本山からの眺めは、格別ですよ」

百瀬の声は、入口から入ってくる風のように、澄んでいる。

「裏に広大な駐車場があるのご存知ですよね」

「お、押忍。知ってます」

「この宿泊施設を背にして駐車場の右側の端に・・・・・・近づかないとわかりませんが、少しくぼんだ場所があるんです」

「端というと、崖ですか?」

「まあ、そうです。そこに何故かはわかりませんが、木製の古いベンチが置いてあります」

「ベンチ・・・・・・ですか」

「そのベンチに座っての眺めが格別です。房総の山々が一望できますよ」

そう言って、百瀬は太郎を施設の外に促すと、ドアを閉め始めた。

「風邪を引かれないように。押忍」

音なくドアが閉まり、太郎は宿泊施設の外に出ることが出来た。

規則だから、外へ出ることは許されない。
こんなことを言われるのだろうと思っていた太郎は、少し面食らっていた。

「百瀬さん。冷静な人だけど、優しいんだな」

太郎は少し素敵な気分になった。

外に出て、コートを着てくるのを忘れていることに気づいた。
厚手で灰色の寝間着に両手で硬く腕組みし、清らかで、凍るような空気と戦いながら、いつしか百瀬の言っていた、駐車場の端にたどり着いた。

この駐車場は、わざと外の風景が見えないようになっているのではないか、と思われるほど周りが草や木々が生い茂っている。
まあ、山の頂上にある場所。
簡易な柵だけでは危険なのかもしれない。

近づいてみると、生い茂る木々や草むらの隙間に人がなんとか通れるような自然のトンネルが出来ていた。
こんなものは、誰かが定期的に通らないとできないだろう。
もしかしたら、総本山内弟子の秘密のスポットなのかもしれない。

「しかし、なんだか先が見えないし、滑り台みたいになってるなあ」

薄暗い早朝では、その先は見えない。

「入ったとたん、崖の下にまっさかさまなんてんじゃあないだろうか?」

だが、百瀬は人をだますようには見えない。

太郎は、決心し、その自然のトンネルに身体をねじ込んだ。

と、そのトンネルの先は、思ったより急になっており、太郎は、くぼみの下に転げ落ちた。

暗さと、酔いと、大回転に、太郎は前後不覚。
本当に、崖から落ちる気がした。

「ぎやあああああああ」

ドスン

大きな音と同時に、太郎の尻に痛みが伝わる。
死んではいないらしい。

「いちちちち・・・・・・一体どうなってるんだあ」

目の前がふらつく中、身体の周りを確認すると、どうも何かに腰かけているようだ。

「あ!ベンチだ。木製の」

太郎は、いつのまにか、百瀬の言っていた古い木製のベンチに座った格好になっていた。

「ほ、本当に死ぬかと思った」

と、太郎は、視線を真正面に上げた瞬間。
太郎の視界には、神々しいまでの光景が広がっていた。

「うわああああ」

それは、山々と薄く明るんだ空との一大パノラマ。
真上は碧く、地平線に近づくにつれ、オレンジがかっていく。

 

「凄い、なんて美しいんだろう」

太郎は、大きくため息をついた。
怖く、痛い思いをしたかいがあった。

「しかし、こんな素晴らしい眺めを楽しめるのも今回限りかもな。選手としてここに来たら、こんな呑気に絶景を楽しむことなんてできないものなあ」

太郎は、身体を大きく伸ばした。

「ううーん。それにしても、こんな素敵な風景を、あずさ先輩と見ることができたらなあ。それって、なんて素敵な青春だよなあ」

太郎は、この風景を一生忘れることはないだろうと思った。

 

第37回全日本大会途中経過

 


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