太郎とロベルトが、一階にある道場に降りると、あずさだけがいた。
もう着替え終わり、道場を後にするところのようだ。

「あっ、水河さん、ロベルトさん。今日はお疲れさまでした」

「……はうう」

太郎は数秒、あずさに目が釘付けになった。
いや、もっと見とれていたかったが、数秒で意識が戻り、視線を外したと言った方がいいだろう。
運動をした後の女性の、ある種特別に発せられる色気のようなもの。
あずさは日頃身体を動かすからだろうか、化粧というものをほとんどしていないように見える。
それでいて白く透き通る肌。
大きな瞳にやわらかな眉毛のカーブ。
それに加え、運動後に拭きとりきれなかった、ほんのりとした汗。
髪をほどいた後の少しまとまりのある髪。
どれもこれもが太郎の身体に電流となって走り抜けた。

太郎は完全に恋に落ちていた。
しかし、太郎にとってあずさは高嶺の華どころか神の領域にいるようだった。
自分には魅力的なところが一つもない。
せつない。

「おう! あずさ、気を付けて帰れよ」

「うん。お疲れさまでした」

そう言うと、あずさは道場を後にした。
太郎は大きく息を吐いた。

「そう言えば、相馬先輩。あずささ……あずさ先輩や師範は、別のところに住んでいるんですか?」

「ああ、そうだよ。まあ、すぐ近くだけどさ。俺だけ、ここに住んでんだ」

「ほえー、なるほど」

「言っとくけど、俺の可愛い妹にちょっかいだしたら……殺すぜ」

「……」

ただでさえ時空を超えた距離のある太郎とあずさの間に、悪魔が立ちふさがった。

「相馬先輩の言う通り、あずさ先輩は、か、可愛いので、良い寄る男は多いんじゃないですか?」

「そうだな。だが、良い寄る前に俺様がしばき倒すからな。ガハハハハ!」

良い寄る前に?
なんという理不尽。
恐ろしさ。
悪魔じゃない。
魔王だ。
シスコン魔王。

 

それはさておき、太郎はあずさの年齢が知りたくなった。
どうすれば、相馬に感づかれずに聞きだせるか。
考えを巡らせる。

「あ、あずさ先輩と相馬先輩はおいくつ年が離れているんですか」

「ああ、俺が今年25だから、あいつは……22になるのかな。四月に、大学4年になったって言ってたな」

「え? あずさ先輩は22歳で、相馬先輩は、今年25歳ですか?」

遠まわしにあずさの年齢を聞くことには成功した。
あずさは太郎と同じ年だった。
太郎は大学に入る前に一年浪人をしていたので、今年大学3年。
あずさの22歳に太郎は驚いた。
運動している人は、やはり若々しさが保たれるのだろうか。
見た目に加えて、持っている天真爛漫さがまた若く見せるのだろう。

しかし一番驚くのは相馬だ。
とても25歳には見えない。
およそ今まで見て来た25歳は、こんな感じではない。
ガキ大将の少年がそのまま大きくなったという感じだ。
茶髪をぶっとばした髪。
社会人として働いているようには思えない。
空手道場経営者の息子として、この道場を継ぐのだろう。
そういう生き方もある。

「そういや、このロベルトはいくつなんだあ? 太郎、聞いてみろや」

「お、押忍。えーっと、ハウ、オールド、アー、ユー?」

「Ah-,Iwillturn22yearsoldnextmonth.」

「何だって?」

「えっと、今年で22歳のようです。僕もあずさ先輩もロベルトも三人とも同じ年のようですね」

「そうかあ。同期で同じ年とは、いいじゃねーか」

「お、押忍」

「よっしゃ! それじゃあ、この俺様直伝の空手稽古を始めるかあ!」

午後九時を回っているが、やはりやるらしい。
先ほどの稽古の後、一時間ほど経っているので、汗で濡れた道着はひんやりとしている。
身体も冷え、動くテンションにない。

相馬は、道場の隅から身体全身を覆うような大きなミットを取り出した。
『ビックミット』と呼ばれる最も大きなミットだ。

「こいつをひたすら突いて蹴るだけだ。それを初心者大会まで続けてもらうぜ。初めは太郎からなー!」

相馬は事務室横の棚からストップウォッチをひん掴み、何やら設定している。

「試合時間は、さっき説明した通り、本戦3分だからな。ビックミット打ち3分間を10ラウンドくらい出来るようにな」 

「押ー忍、相馬先輩。延長戦は2分では……」

「馬鹿! 延長戦のことなんか考えんな。本戦で決めるんだよ。本戦で決まらければ、スタミナ切れで終わりだ」

「お、押忍。では、どのように突いたり蹴ったりすれば」

「やり方なんかねえよ。とにかく動きまくれ! それだけだ」

「お、押忍」

相馬は、ビックミットをロベルトに担がせた。
大きなロベルトの上半身はすっぽり隠れ、頭と膝下だけだ出ている。

「ヘイ、ロベルト! スリーアウアー!」

「そ、相馬先輩、スリーアウアーだと、三時間になってしまいます。スリーミニッツです」

「てめー! 俺様に口答えすんじゃねー! ヘイ、スリーミニッツだ! OK?」

「Yes,ithasunderstood」

「じゃあ、構えてー、始めっ!」

「あわわ……押忍」

ストップウォッチの電子音が鳴った。
相馬稽古の始まりだ。
太郎はロベルトの構えるビックミットに対して、突きや蹴りを打ち込む。

「太郎! ビックミットはな、全力でやらねーと意味ねえんだ! もちっと強く、気合入れろや!」

「押ー忍、うりゃあああ!」

太郎は大きな声を上げながら打ち続ける。
乾いた音が道場内に響き渡る。

 

しかし、30秒も動いていると、一気に失速し始めた。
腕が重い、足が重い、身体が動かない。

「ぜーぜーぜー」

太郎の突き、蹴りからの音が小さくなる。

「こらあ! 太郎! 音で分かるぞ! なんじゃ、そんなもんか! まだ1分も経ってねーぞ。そんなんじゃ一回戦負けだぜ!」

「お、押ー忍」

「Taroandtheboastworkhardandfight!」

辛い。
まだ2分もある。
息が苦しい。
こんなに苦しい思いはしたことがない。
高校時代の中距離走だってこんなに辛くなかった。
逃げ出したい。

それでも太郎は、3分間動き続けた。
終わると、膝から崩れ落ちてしまった。

「こらー! 太郎! 終わったら、ミットを持ってたロベルトに挨拶せんかい! 空手は礼に始まって礼に終わるんだ!」

「ひ、お、押忍」

太郎は、立ちあがって、ロベルトにお礼を言う。

「今ので、わかったろ。お前が全力で動けるのは、せいぜい30秒ってことだ。これを大会までに3分まで動けるようにするんだ。そうすりゃ勝てるって訳よ」

「お、押忍」

「じゃあ、次はロベルトな。太郎、ビックミット頼むぞ」

「はあ、はあ、押忍」

太郎はロベルトからビックミットを受け取った。
想像よりも重かった。
動きまくった後のため、重く感じられただけかもしれない。
担いでいるだけで疲れる。

ロベルトは太郎の前で構える。
構えはぎこちないが、力強さがみなぎっている。

「よーし、ロべ! レッツゴー!」

「Oh-!」

ロベルトの最初の突きを受けた瞬間、その衝撃で太郎はビックミットごと後ろに吹っ飛んでしまった。

「おらっ、太郎! ロベルトの稽古にならねーじゃねーか! ちゃんと持っとれ!」

「お、押忍」

太郎は立ち上がり、強く踏ん張る。
さきほどの他の道場生との稽古と同じだ。
しっかり踏ん張らなければならない。

「オー!」

ロベルトは力強く突きを打ち込んで行く。
重い突きの連打。

「ロベ! 突きだけじゃなく、蹴りも打て! ヘイ、キック!」

「Yes!」

ロベルトは蹴りも重い。
太郎の時より低い音がこだまする。
しかし、ロベルトは30秒を待たずして失速し始めた。

「なんだあ! ロベー、てめーなめてんのかあ!」

相馬はロベルトの尻を蹴り上げる。

「Oh-,no-!」

太郎は、ロベルトよりも優れているところが見つかった気がした。
そうだ。
身体の大きさが違うので、パワーは負けるが、スタミナで勝ることは出来る。

ロベルトは後半、まともに突きも蹴りも出ないような状態だった。
しかしなんとか3分間をやりとげた。

「お前らなあ。10ラウンドはやろうかと思ったが、1ラウンドでこれじゃあなあ。まあ、初日だし、明日からだな。今日はこれで終わりだあ! 銭湯でも行くかあ!」

太郎の空手初稽古は終わった。
疲労困憊。
だが、間違いなく、充実した一日だった。

 


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