第7話  これが空手の稽古

 

岩村が更衣室から出てくると、緑色の帯を巻いていた。
太郎が帯を見ているのに岩村は気付いた。

「あっ、帯ね。まだ、帯の順番も分からないよね」

「お、押忍。黒帯の方が一番上だっていうのはなんとなくわかるのですが」

「うん。じゃあ、帯の説明からしようかな」

岩村は事務室の隣の棚に太郎とロベルトを案内した。
そこには色々な帯が並んでいた。

「うわー、色々あるんですねー」

「級や段で、空手の上達度を分けているんだ。太郎君やロベルト君のように空手道場に入門したての人は、”級なし”ということで白帯」

「なるほど。僕達はまだ級すらないんですね」

「そう。級は年に四回ある昇級審査を受けることで上がるんだ。通常一回の審査で一つ級が上がる。優秀な人だと二つ級が上がることがある。”飛び級”ってやつさ」

岩村の説明を理解してるのか理解していないのか。
ロベルトもしきりに頷き、真剣に聞いている。

「級なしから審査を受けると、10級、9級と上がっていく。この級の帯はこの橙色の帯」

岩村は棚にある橙色の帯を指差す。

「8級、7級が青帯。6級、5級が黄帯。4級、3級が緑帯。僕は今、3級なんで緑帯を締めてるってわけ」

「なるほどー」

「2級、1級が茶帯。そして初段以降が黒帯。これは昇級審査ではなく、”昇段審査”って厳しい審査を経ないと手に入らないものなんだ。うちの道場でも師範や相馬先輩、あずさ先輩、栗原先輩など一握りの人だけなんだ」

「栗原先輩は、初めて聞きました」

「栗原美雪先輩って綺麗な女性の方なんだ。実はね……相馬先輩のコレなんだ」

岩村は恥ずかしそうに小指を立てた。

「ええ! 相馬先輩のコレですか! 一体どんな女性なんだろう?」

「まあ、そのうち会えるさ」

岩村も苦笑いしている。あの相馬と付き合うくらいの女性だ。想像がつかない。

「岩村先輩。気になっていたのですが、あの写真の御老人は……」

太郎は道場の正面、飾られている額縁入りの老人の写真を指し示した。

「ああ。あの方は、我々が修業している”神覇館空手”の創始者の神(じん)館長だよ」

「神覇館。神館長」

太郎が昨日、道場に足を踏み入れてその写真が目に入った時、何となく創始者だろうなとは思ったのだが、そうは思わせない不思議な写真だった。
空手着姿の老人が、大きな木の横に立ち片手をついて笑っている。
まるで旅行の思い出の写真のようだ。
長い白髪を後ろでまとめている。
年は70歳くらいだろうか。
だがいたずらっぽく笑うその顔からは若々しさが溢れている。

「僕らが入門した空手は神覇館というのですね」

「そうだよ。房総半島の南内陸の山の中に神覇館空手の”総本山道場”があるんだ。神館長はそこにいらっしゃるんだよ」

「え?」

太郎の中で何かが繋がった。
太郎が千葉に帰省した時にドライブで通り、見る度に気になっていた、あのお寺のような建物が神覇館空手の総本山道場だったのだろうか。
だから、その近くの森に相馬がいたのだ。
なんとも不思議な出会いだ。

太郎と岩村の説明を受けていると、道場生がパラパラと入ってくる。
昨日見た時のように年齢はバラバラだ。
初老の男性。
仕事帰りのOL風の女性。
中学生、高校生。
空手は、強面の男だけがするものだという太郎の固定観念は崩れて来た。
道場生が入ってくる度に二度ずつ『押忍』と聞こえる。
その度に、太郎らも十字を切って挨拶をする。

「岩村先輩、何で、押忍を二度言うんですか?」

「一回目は神館長に対して、二度目が道場のみんなに対してって意味だよ」

「なるほどー」

「礼節は空手道の基本だからね。粗暴な行動は慎まなければならないよ」

「……押忍」

すぐに相馬の顔が思い浮かんだ。
粗暴の第一人者のような男だ。
だが、岩村につっこむのは止めておいた。

しばらくしてまた道場内に人がやってきた。
縁の厚い眼鏡を掛け、紺のトレーナーを着た、50歳くらいの大柄な男性だ。
と、太郎は道場内の道場生達の動きが違うことに気付いた。
緊張感が張り詰める。
皆の挨拶の声も一段階大きい。
岩村が耳打ちしてくれた。

「あの人が板橋道場師範の相馬源五郎師範だよ」

「あっ、あの方が」

源五郎はすぐに太郎とロベルトに気がつき、近づいて来た。
源五郎は身長170cmくらいだが、身体つきが熊のように大きい。
全て筋肉だろうか。

「水河さんと、ロベルトさんだね。私が師範の相馬源五郎です。なんか清彦の奴に連れて来られたみたいだけど」

「あう、み、水河です! よろしくお願いします」

「オス」

太郎とロベルトは大きく十字を切った。
緊張でそれしか出来ない。

「まあ、頑張って下さいね」

源五郎は事務室に入っていった。

「うわー、緊張した。凄い身体ですね」

「でしょう。昔は全日本大会なんかで活躍されていたみたいだから。でも性格はおおらかで良い人ですよ」

確かに懐の深そうな人物だった。
そしてこの岩村も。
相馬の言う通り仏様のような性格だ。
太郎は相馬の言葉を疑った自分が恥ずかしくなってきた。

源五郎のすぐ後に、あずさも入ってきた。
皆に明るく挨拶していくが、太郎とロベルトの時だけ何だかよそよそしい。
そのまま女性の更衣室に入って行った。
太郎はすぐに原因がわかった。
ロベルトだ。
さきほど自分のことをエロ呼ばわりした所為だろう。
あずさは、そういうことに免疫が無さそうな感じだ。
太郎はロベルトを睨みつける。
ロベルトはそしらぬ顔。

時間になり稽古の時間がやってきた。
師範とあずさが正面に出る。
空手着姿のあずさに太郎は釘づけだ。
セミロングの黒髪を一つに束ね、おでこに垂れる前髪をかきわけるしぐさ。
そんなあずさを見ているだけで、太郎は身体の中が燃え上がるような感覚に襲われた。
これが恋なのか。
ほとばしる妄想に一人で酔いしれる太郎だった。

 

前から茶帯、緑帯と帯の順番に並んでいく。
白帯の太郎とロベルトは一番後ろに並ぶ。

稽古が始まると、正座してしばし黙想し、準備体操に入る。
柔軟では、先輩道場生達の身体のやわらかさに驚かされた。
みな足が上下に、そして左右に相当な角度まで広がる。
しかし、一番はあずさだ。
上下も左右も180度広がる。
その美しさたるや形容しがたい。
女神だ。

一方、太郎は恐ろしく身体が固い。
足も90度くらいしか開かない。

しかし、その太郎を上回るのがロベルトだった。
ふざけているのかと思うほど身体が固い。
どうやら柔軟性は太郎が一歩先を行っているらしい。

そして突きや、蹴りといった空手の基本の動きに移る。
太郎は周りの道場生の動きを確認しながら見よう見まねでついていく。
隣のロベルトも動きがぎこちない。
なぜか道着を着るのは早かったが、どうやら空手は初心者のようだ。

基本が終わると、移動しながら突きや蹴りを打っていく。
突きなどは、皆、足を一歩前に出すと同時に決まる。
足からの体重が腕に伝わっている。
太郎は足と手が同時に出てしまう。
タメがない。
なかなか難しい。

移動稽古が終わると、ミット打ちに移る。
腕を覆うくらいの小さいものから、身体を包むような大きなものまで様々なミットがある。
二人一組になり、お互いに打ちあう。

太郎はロベルトと組み、太郎から突きを打つ。
相馬に教わった拳の握り方を思い出し、ミットに突きを打ちつける。
『ぼすっ』と鈍い音が出る。
回りの道場生達のようなするどい音が出ない。
なるほど突き方にもコツがあるようだ。

しばらくして、ロベルトに交代し、今度は太郎はミットを胸の位置に構える。
源五郎の合図と同時にロベルトが突きを打ち込んできた。
すると太郎は、その突きの衝撃の強さで、後ろに倒れてしまった。

「あらら、きちんと踏ん張らないと危ないですよ」

源五郎の注意が飛ぶ。
太郎はゆっくりと立ち上がる。
何て力なのだろうか。
太郎は、あずさの前でこれ以上カッコ悪いところを見せられないとそこから先は踏ん張った。

 
一通り、ミット打ちが終わると、本日の稽古は終了となった。
皆に挨拶をして、床を掃除する。
雑巾がけをする太郎の膝はがくがく震えていた。
それだけ凄い運動量だったのだろう。

「太郎君、どうだった、初稽古は?」

岩村が笑顔で話しかける。

「押忍。疲れましたが、いい運動になりました」

太郎はメガネを外し、袖で顔の汗を拭う。
充実した時間だった。

と、玄関のドアが乱暴に開いた。相馬が帰ってきたようだ。

 


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