朝、太郎は新宿に向かい、江の島行きの電車に乗り込んだ。
このまま、住居もなくさまよっていたのでは何にも出来ない。

どこかアパートを借りるにも東京では高すぎる。
とにかく東京は離れようと考えた。

江の島は、かつて実家に勘当され、考え事をするために訪れた場所。

なぜ江の島に行ったのか。
そして、今なぜ江の島に向かっているのか。

太郎自身にもわからない。

葉月と別れた東京から離れたかったのかもしれない。
とにかく太郎はなんの迷いもなく、江の島へ向かうことにした。

江ノ島電鉄に揺られながら、窓から外を眺める。
2年前と変わらない海岸線。
6月のからっとした晴天。

江の島が近づいてくる。
太郎は江ノ島駅の手前で下車し、海岸沿いを歩いてみることに。

いつもと同じ地球上なのだろうか。
空を見たのは久しぶりな気がした。

潮の香りを味わいながら、太陽の光に照らされていると、ふさぎ込んでいた自分がなんだか滑稽に思えてきた。

別に病気をしたわけではない。

別に犯罪を犯したわけではない。

なのになぜ自分はこんなに追い込まれているのか。

自分で自分を追い込んでいるだけなのではないか。

あんなに狭かった世界が、今はこんなに広いではないか。

立て直そう。

今日から。

今から。

太郎は、食事をするところを探すことにした。
海岸を背に歩を進める。

小道を通り、しばらく歩いていると、小さい森に囲まれた渋い喫茶店があった。

木造の建物。
店の前には大きな水車が回っていた。

入口に垂れ下っている小さな看板には『ラブイク』と書かれていた。

「ラブイク……変な名前だな。まあ、サンドイッチくらい置いてあるかな」

店に入ると、20席くらいでこじんまりしている。
5、6人の客が会話をしたり、読書をしたり。

店内からは裏の森が眺められ、庭に石造りの池がある。

「はあー、カッコいい店だなあ」

「いらっしゃいませー」

店の奥から現れたのは、高校生だろうか。
制服の上からエプロンを羽織った女の子。

メガネを掛け、黒髪のショートカット。

太郎は久しぶりに見る女子高生に顔がにやけていくのを感じた。

「おひとりさまですかー? お好きな席にどーぞー」

若くて張りのある声。
太郎は一番奥の席に座り、アイスコーヒーとパンケーキを注文した。

「かしこまりましたー。少々お待ちください」

そう言うと、女の子は店の奥に入って行った。

すると、女の子の声で『無精髭でニヤニヤしてるお客様、アイスとパンケーキでーす』と聞こえた。

太郎は時間が止まったような感覚に陥った。

「え? な、なんちゅー失礼極まりない言い方なんだろうか……心機一転頑張ろうと誓った日だというのに……」

すると、奥から『シー!』と、女の子を制するような声。
おそらく店のマスターだろう。

そりゃそうだ。
お客様のことをこんな言い方をすることは許されない。

しかし、そのマスターらしき男性からは『それは変態だから、近づいちゃ駄目だよ』と。
これまた太郎に聞こえた。

「ななな!  と、とんでもない店に入ってしまったようだ。ちょっとにやけたくらいで、へ、変態とは!」

その後、しばらくして店の奥からオールバックに口ひげ、スマートな40歳程の男性が出て来た。
本当に先ほどの子を太郎に近づけたくなかったらしい。

「ホットケーキとアイスコーヒーです」

しかし、その皿の置き方、コーヒーの置き方には目を奪われた。
緩急ありキレありの見事な配膳。

そして口ひげが斜めに持ち上がるクールな笑顔。
しかし突然、その男性は太郎の顔をじっと見つめてきた。

「む……むむ」

「え、な、なんでしょう?」

男性は右手で軽く髭をなで「あずささんは元気かい?」と言った。
太郎は面喰らって、言葉が出ない。

「あれ、間違ってたかな。確かあずささんだったような……」

「い、いえ、あずささんは良く知ってますが……どこかでお会いしましたか?」

男性は細い眉毛を大袈裟に持ち上げ「ええ、この近くの海岸でね」と片手を外に向けた。

「あっ!  もしや!」

太郎は思い出した。
2年前、江の島の海岸で出会ったダンディーな中年男性の事を。

「あの時の! 良く、僕のこと覚えてましたね!」

「ふふ、仕事柄、人の顔を覚える力が備わるんだよ」

確かその時は、娘が留守番をしていると言って去って行ったような。

「まさか、先ほどの女性が……」

「ああ、娘の郁美だよ」

「ま、まさか、店の名前は……」

「ふ、『LOVE郁美』の略さ」

「……ですよね」

 

 

「おーい、郁美。この人は変態じゃないよー。パパの知り合いだった」

マスターは奥にいる娘の郁美を呼んだ。

「パパ、変態とか、酷くない?」

先ほどのショートカット眼鏡の女の子が出てきた。
この子は、無精ヒゲでニヤニヤしていると言っていたが。

「あれ? 郁美、この人どこかで見たことあるなあ……」

郁美は太郎の顔をじっと見つめる。
メガネの奥には大きな瞳。
太郎はドギマギしてしまった。

「こら、郁美。そんなに顔を近づけるんじゃない」

マスターはよほど、郁美の事が心配らしい。

「あー、わかったー! 太郎先生でしょ!」

郁美は太郎の顔を指差す。

「へ? どうして僕の名前を?」

太郎は不思議でならない。

「だって、ちょっと前に、テレビに出てたでしょ? スモークラバー正宗の空手入門コーナーに!」

「あっ、それか。なつかしいなあ」

マスターも腕を組んで頷く。

収録が終わって、1年が経つが、覚えている人は覚えているものだ。
太郎は、街中を彷徨っていた時に顔を指されなくて良かったと思った。

「ふーん、では君は空手の達人な訳だな」

「いや、達人だなんて」

「だが、無精髭に大きなバッグ……まるで家出して住むところないみたいな格好じゃないか」

「はあ、いろいろありまして」

「郁美、ブレンド持ってきて。パパは、彼とお話してるから、店頼むわ」

「えー! 郁美も聞きたい!」

「郁美……男同士の話なんだ。それに、高校生には刺激が強い話になるかもしれない……ね」

「はは。そ、そうですね」

 

 

頬を膨らませている郁美がコーヒーを置いて去ると、太郎はこれまでのいきさつをマスターに話した。

「ほお。辛い別れだねえ」

話は葉月の話に。

「で、前日に葉月さんに言おうと決心したということだが。それって、結婚を切り出そうとしたの? それとも別れを告げようとしたの?」

「実は・・・・・・よくわからないんです」

「うん」

「たぶん、その時の状況によって、いや、正直に言うと、その時の気分ですら答えが変わっていたように思えます。とにかく、答えを告げようと決心したんです」

「・・・・・・」

「ダメだヤツですよね」

「いや、そんなことはないさ。葉月さんにとって、君と生活した半年間はかけがえのない、楽しいものだったハズだよ」

「え」

「女性に心地の良い時間を提供することが男の役割りだと思うんだ。それから考えれば、太郎君は合格点だ」

「そ、そんな」

「それに、これは俺の直観だが。気を悪くしないでほしいんだが。何となく葉月さんと太郎君は、上手くいかなかったかもしれないねえ」

「え、そ、そうなんですか」

「うん。あまりにも上手く溶け込み過ぎている」

太郎は頷く。

「男女ってのは、なんていうか、こう、ぎざぎざなもの同士がくっつこうとするんだね」

マスターは、両手の指を曲げて、左右を合わせたり離したり。

「太郎君と葉月さんの場合は、このぎざぎざがあまりない状態だったと思うんだ。すると、始めはいい。すぐに親密になれる。だが、ひっかかりも無いからすぐに離れてしまう」

「はい」

「でもって、このぎざぎざが大きなもの同士の場合、始めはなかなかくっつかない。だって、お互いぎざぎざしているからね。だが、ぶつかってぶつかって、しばらくすると、徐々にお互いのぎざぎざが上手くはまってくる。鍵穴に鍵が入るようにね」

マスターは左右の手の指を曲げたまま合わせる。

「こうなるともう、離れられない。まあ、運命共同体ってわけさ」

「なるほどー」

確かに、葉月とは何の障壁もなく一緒になれた。

一方で、あずさとは長い時間をかけて少しずつ近づいていった。

「まあ、浅い俺の経験上の話だけどね」

「いえ、そんな、勉強になりました」

 

マスターは冷え切ったコーヒーを口に入れた。

「まあ、それにしても、なかなか面白い青春時代を過ごしているねー。楽しいだろ?」

「いや、辛いです」

「ふふ、それでこれから行くあてはあるのかい?」

「いやー、全く」

太郎の言葉を受け、マスターは数回うなづいた。

「実はね。今、店を郁美と二人でやってるんだが、彼女、今年大学受験生なんだよ。新しいバイトを雇おうにも、そんな金が無いし。君が良ければ、住み込みで働いてみない? 金はあんまり渡せないけど、3食と寝る場所くらいは……」

「えー! いいんですかあー?」

「勿論。見たところ、悪い奴じゃなさそうだし。それに、郁美に変な虫が近寄ってきたら、追い払ってもらえそうだし」

「そ、その郁美さんは、突然、僕みたいのが押し掛けても……大丈夫なんでしょうか?」

「ん? 大丈夫だろ。さっきの反応を見ている限りでは」

「ははは、頑張ります」

「仕事以外の時間は、店の中で好きなだけ勉強したまえ」

「ありがとうございます。このソファーなんて、凄く良いものですね」

「ああ。俺のワイフが買い付けてきたやつなんだ」

「あ、奥さまは確か海外を飛び回っていらっしゃるんでしたっけ」

「そうなんだよ。海外アンティーク専門でね」

「へえー。そうなんですねー」

 

マスターはカウンターの中にいる郁美を呼んだ。

「今日から、太郎君には、住み込みで働いてもらうことにしたから」

太郎は、郁美の反応に注目したが、嫌がっている素振りは全くなく、むしろ喜んでいるようだった。

「わー、有名人が家で働くなんてー! 友達に自慢しよ! よろしくね、太郎先生!」

 


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