第140話  太郎先生

 

朝、太郎は新宿に向かい、江の島行きの電車に乗り込んだ。
このまま、住居もなくさまよっていたのでは何にも出来ない。

どこかアパートを借りるにも東京では高すぎる。
とにかく東京は離れようと考えた。

江の島は、かつて実家に勘当され、考え事をするために訪れた場所。

なぜ江の島に行ったのか。
そして、今なぜ江の島に向かっているのか。

太郎自身にもわからない。

葉月と別れた東京から離れたかったのかもしれない。
とにかく太郎はなんの迷いもなく、江の島へ向かうことにした。

江ノ島電鉄に揺られながら、窓から外を眺める。
2年前と変わらない海岸線。
6月のからっとした晴天。

江の島が近づいてくる。
太郎は江ノ島駅の手前で下車し、海岸沿いを歩いてみることに。

いつもと同じ地球上なのだろうか。
空を見たのは久しぶりな気がした。

潮の香りを味わいながら、太陽の光に照らされていると、ふさぎ込んでいた自分がなんだか滑稽に思えてきた。

別に病気をしたわけではない。

別に犯罪を犯したわけではない。

なのになぜ自分はこんなに追い込まれているのか。

自分で自分を追い込んでいるだけなのではないか。

あんなに狭かった世界が、今はこんなに広いではないか。

立て直そう。

今日から。

今から。

太郎は、食事をするところを探すことにした。
海岸を背に歩を進める。

小道を通り、しばらく歩いていると、小さい森に囲まれた渋い喫茶店があった。

木造の建物。
店の前には大きな水車が回っていた。

入口に垂れ下っている小さな看板には『ラブイク』と書かれていた。

「ラブイク……変な名前だな。まあ、サンドイッチくらい置いてあるかな」

店に入ると、20席くらいでこじんまりしている。
5、6人の客が会話をしたり、読書をしたり。

店内からは裏の森が眺められ、庭に石造りの池がある。

「はあー、カッコいい店だなあ」

「いらっしゃいませー」

店の奥から現れたのは、高校生だろうか。
制服の上からエプロンを羽織った女の子。

メガネを掛け、黒髪のショートカット。

太郎は久しぶりに見る女子高生に顔がにやけていくのを感じた。

「おひとりさまですかー? お好きな席にどーぞー」

若くて張りのある声。
太郎は一番奥の席に座り、アイスコーヒーとパンケーキを注文した。

「かしこまりましたー。少々お待ちください」

そう言うと、女の子は店の奥に入って行った。

すると、女の子の声で『無精髭でニヤニヤしてるお客様、アイスとパンケーキでーす』と聞こえた。

太郎は時間が止まったような感覚に陥った。

「え? な、なんちゅー失礼極まりない言い方なんだろうか……心機一転頑張ろうと誓った日だというのに……」

すると、奥から『シー!』と、女の子を制するような声。
おそらく店のマスターだろう。

そりゃそうだ。
お客様のことをこんな言い方をすることは許されない。

しかし、そのマスターらしき男性からは『それは変態だから、近づいちゃ駄目だよ』と。
これまた太郎に聞こえた。

「ななな!  と、とんでもない店に入ってしまったようだ。ちょっとにやけたくらいで、へ、変態とは!」

その後、しばらくして店の奥からオールバックに口ひげ、スマートな40歳程の男性が出て来た。
本当に先ほどの子を太郎に近づけたくなかったらしい。

「ホットケーキとアイスコーヒーです」

しかし、その皿の置き方、コーヒーの置き方には目を奪われた。
緩急ありキレありの見事な配膳。

そして口ひげが斜めに持ち上がるクールな笑顔。
しかし突然、その男性は太郎の顔をじっと見つめてきた。

「む……むむ」

「え、な、なんでしょう?」

男性は右手で軽く髭をなで「あずささんは元気かい?」と言った。
太郎は面喰らって、言葉が出ない。

「あれ、間違ってたかな。確かあずささんだったような……」

「い、いえ、あずささんは良く知ってますが……どこかでお会いしましたか?」

男性は細い眉毛を大袈裟に持ち上げ「ええ、この近くの海岸でね」と片手を外に向けた。

「あっ!  もしや!」

太郎は思い出した。
2年前、江の島の海岸で出会ったダンディーな中年男性の事を。

「あの時の! 良く、僕のこと覚えてましたね!」

「ふふ、仕事柄、人の顔を覚える力が備わるんだよ」

確かその時は、娘が留守番をしていると言って去って行ったような。

「まさか、先ほどの女性が……」

「ああ、娘の郁美だよ」

「ま、まさか、店の名前は……」

「ふ、『LOVE郁美』の略さ」

「……ですよね」

 

 

「おーい、郁美。この人は変態じゃないよー。パパの知り合いだった」

マスターは奥にいる娘の郁美を呼んだ。

「パパ、変態とか、酷くない?」

先ほどのショートカット眼鏡の女の子が出てきた。
この子は、無精ヒゲでニヤニヤしていると言っていたが。

「あれ? 郁美、この人どこかで見たことあるなあ……」

郁美は太郎の顔をじっと見つめる。
メガネの奥には大きな瞳。
太郎はドギマギしてしまった。

「こら、郁美。そんなに顔を近づけるんじゃない」

マスターはよほど、郁美の事が心配らしい。

「あー、わかったー! 太郎先生でしょ!」

郁美は太郎の顔を指差す。

「へ? どうして僕の名前を?」

太郎は不思議でならない。

「だって、ちょっと前に、テレビに出てたでしょ? スモークラバー正宗の空手入門コーナーに!」

「あっ、それか。なつかしいなあ」

マスターも腕を組んで頷く。

収録が終わって、1年が経つが、覚えている人は覚えているものだ。
太郎は、街中を彷徨っていた時に顔を指されなくて良かったと思った。

「ふーん、では君は空手の達人な訳だな」

「いや、達人だなんて」

「だが、無精髭に大きなバッグ……まるで家出して住むところないみたいな格好じゃないか」

「はあ、いろいろありまして」

「郁美、ブレンド持ってきて。パパは、彼とお話してるから、店頼むわ」

「えー! 郁美も聞きたい!」

「郁美……男同士の話なんだ。それに、高校生には刺激が強い話になるかもしれない……ね」

「はは。そ、そうですね」

 

 

頬を膨らませている郁美がコーヒーを置いて去ると、太郎はこれまでのいきさつをマスターに話した。

「ほお。辛い別れだねえ」

話は葉月の話に。

「で、前日に葉月さんに言おうと決心したということだが。それって、結婚を切り出そうとしたの? それとも別れを告げようとしたの?」

「実は・・・・・・よくわからないんです」

「うん」

「たぶん、その時の状況によって、いや、正直に言うと、その時の気分ですら答えが変わっていたように思えます。とにかく、答えを告げようと決心したんです」

「・・・・・・」

「ダメだヤツですよね」

「いや、そんなことはないさ。葉月さんにとって、君と生活した半年間はかけがえのない、楽しいものだったハズだよ」

「え」

「女性に心地の良い時間を提供することが男の役割りだと思うんだ。それから考えれば、太郎君は合格点だ」

「そ、そんな」

「それに、これは俺の直観だが。気を悪くしないでほしいんだが。何となく葉月さんと太郎君は、上手くいかなかったかもしれないねえ」

「え、そ、そうなんですか」

「うん。あまりにも上手く溶け込み過ぎている」

太郎は頷く。

「男女ってのは、なんていうか、こう、ぎざぎざなもの同士がくっつこうとするんだね」

マスターは、両手の指を曲げて、左右を合わせたり離したり。

「太郎君と葉月さんの場合は、このぎざぎざがあまりない状態だったと思うんだ。すると、始めはいい。すぐに親密になれる。だが、ひっかかりも無いからすぐに離れてしまう」

「はい」

「でもって、このぎざぎざが大きなもの同士の場合、始めはなかなかくっつかない。だって、お互いぎざぎざしているからね。だが、ぶつかってぶつかって、しばらくすると、徐々にお互いのぎざぎざが上手くはまってくる。鍵穴に鍵が入るようにね」

マスターは左右の手の指を曲げたまま合わせる。

「こうなるともう、離れられない。まあ、運命共同体ってわけさ」

「なるほどー」

確かに、葉月とは何の障壁もなく一緒になれた。

一方で、あずさとは長い時間をかけて少しずつ近づいていった。

「まあ、浅い俺の経験上の話だけどね」

「いえ、そんな、勉強になりました」

 

マスターは冷え切ったコーヒーを口に入れた。

「まあ、それにしても、なかなか面白い青春時代を過ごしているねー。楽しいだろ?」

「いや、辛いです」

「ふふ、それでこれから行くあてはあるのかい?」

「いやー、全く」

太郎の言葉を受け、マスターは数回うなづいた。

「実はね。今、店を郁美と二人でやってるんだが、彼女、今年大学受験生なんだよ。新しいバイトを雇おうにも、そんな金が無いし。君が良ければ、住み込みで働いてみない? 金はあんまり渡せないけど、3食と寝る場所くらいは……」

「えー! いいんですかあー?」

「勿論。見たところ、悪い奴じゃなさそうだし。それに、郁美に変な虫が近寄ってきたら、追い払ってもらえそうだし」

「そ、その郁美さんは、突然、僕みたいのが押し掛けても……大丈夫なんでしょうか?」

「ん? 大丈夫だろ。さっきの反応を見ている限りでは」

「ははは、頑張ります」

「仕事以外の時間は、店の中で好きなだけ勉強したまえ」

「ありがとうございます。このソファーなんて、凄く良いものですね」

「ああ。俺のワイフが買い付けてきたやつなんだ」

「あ、奥さまは確か海外を飛び回っていらっしゃるんでしたっけ」

「そうなんだよ。海外アンティーク専門でね」

「へえー。そうなんですねー」

 

マスターはカウンターの中にいる郁美を呼んだ。

「今日から、太郎君には、住み込みで働いてもらうことにしたから」

太郎は、郁美の反応に注目したが、嫌がっている素振りは全くなく、むしろ喜んでいるようだった。

「わー、有名人が家で働くなんてー! 友達に自慢しよ! よろしくね、太郎先生!」

 


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