第138話  五月の夜風

 

夜、祖父を駅まで送り届け、葉月は部屋に戻ってきた。
やはり、そこには太郎の姿はなかった。

太郎が勉強に使っていた本もない。
歯ブラシもない。
洋服もない。

太郎のいた痕跡がない。

本当にここで同棲していたのだろうか。

 

 

葉月は太郎のいたベランダに出る。
当然、そこにも太郎の姿はなかった。

「タロちん……」

「呼んだ?」

「え?」

声の方を向くと、隣のベランダに太郎が立っていた。

「た、タロちん?」

「元気ないね、葉月さん」

「どうして……そこは、芸人さんか誰かが住んでいたような」

「そう。僕の知り合い。昼間、ここからお祖父さんと一緒にいるところが見えたんで、荷物とか全部ここに投げ入れたんだ」

「そうだったんだ」

「……ごめんね、葉月さん。僕はお祖父さんの言葉に何の反論も出来なかった」

「ううん。私の方こそ……だって今日は大事な試験の日だったのに」

「だ、大丈夫だよ。人生何とかなるもんだよ、きっと。行き場の無かった僕も、葉月さんに救われたし」

「私もいっぱいタロちんに救われたんだよ」

「え」

「さみしかったの。私、あんまり他人とコミュニケーションを取るのが得意じゃないんだ。友達もいないし、仕事も楽しいわけじゃないし」

驚いた。
葉月はそんな悩みを抱えていたなんて。

「だから、別に昔からの夢ってわけじゃなかったのに、パティシエになりたいなんて目標を作ったの。何か目標がないと現実に押し殺されそうで」

 

孤独。

葉月も孤独と戦っていたのだ。

 

「そんな私だったけど、タロちんはすんなり受け入れられたの。多分、私達相性がいいんだよね」

「僕もそう思う」

お互いわかっていた。
抜群の相性。

しかし、欠けていたものがあった。
それは、愛の言葉。

好きであることの確認。

 

「私ね、決めたの」

「ん?」

「私、おじいちゃんの元に帰ろうと思ってるの」

「え、そうなの?」

「タロちんのいない、この部屋に住むのも辛いし、それに、将来の夢は苦労して海外に行くことじゃない。素敵なパティシエになることだし。そのためには、おじいちゃんのお金をじゃんじゃん遣ってやろうかなって! 私、悪い子でしょ?」

「ははは、いや、それがいいよ。パティシエになったら、僕にも食べさせてね」

しかし、太郎には分かっていた。
もう葉月に会うことはないのだと。

 

「タロちん。私、朝ね。タロちんに渡そうとしたものがあったの」

「うん?」

葉月は隣のベランダに腕を伸ばし、太郎の手を掴み、そっと手渡した。

「……お守り」

「これ持ってたからおじいちゃんにタロちんのことばれちゃったんだけどね。今年は駄目だったけど、来年も受けるんでしょ?」

太郎には分からなかった。

いままで、恵まれた環境で集中して勉強が出来た。
しかし、明日からはどこに住めばいいのかも分からない身だ。

来年、試験を受ける自分を想像することができなかった。

「……うん! 勿論受けるさ! このお守り、大事に持ってるよ」

葉月は、突然、大粒の涙を流し始めた。

「……お守りはね……願いが叶ったらね……元あった場所に返すんだよ……だから、来年、タロちんが、合格したら……私達が初めて出会った公園に……あのベンチに……結んでおいて。見えないように……もちろん覚えているよね?」

葉月にも、太郎ともう会えないという予感がしていたのだろう。
太郎は涙を堪える。

「もちろん! 清掃の人にも見つからないように結んでおくよ!」

「タロちん……幸せになってね」

「うん、葉月さんも……」

二人はそっと手を握った。

ベランダの境界にある壁は、絶妙に二人の距離をつくりだしていた。
手をつなぐことしか出来ない距離。

二人の距離。

 

葉月は部屋に戻って行った。
もう太郎には会えないとわかっていながら。

 

太郎の足元で正宗が静かに泣いていた。

「う、う……うう。太郎先輩」

「正宗、世話になったね。俺は、もう行くわ」

「え? 今からですか? つーか、どこに行くんスか? 当てはあるんスか? 金はあるんスか?」

「全部無い! だから、正宗……10万貸してくれ!」

「うおっ! ……わ、わかりました。でも、出世払いですよ。ちゃんと返してくださいね」

太郎は、正宗から10万を奪い取りマンションを後にした。
午後11時。

行き場所は決まっていない。

 


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