第128話  売れっ子芸人の部屋にて

 

ほのかに漂う甘い香りに包まれながら、太郎はゆっくりと目を開いた。

壁に掛かっている時計を見ると、すでに昼だった。
葉月は仕事に出てしまっているらしい。

ベッドから見えるテーブルには、置き手紙と朝ごはんが置いてあった。

ベーコン付きの目玉焼き。
キャベツ細切りの上にはポテトサラダ。
鍋には、豆腐とネギの味噌汁が作ってある。

太郎は完全なヒモであった。

「う……俺みたいな奴の為に」

 

ふわふわで厚みのある布団を這い出て、いかにも高そうな絨毯に足をつける。
かつて住んでいた相馬の部屋に敷いてあったのは、安くて薄いカーペットだった。

フローリングの夏は汗でベトベト、冬は氷の上のようだったので、太郎がしぶしぶディスカウントストアで購入したものだった。

 

葉月からの手紙には『合鍵が無くてごめんね。お家でおとなしくしててね』と書かれていた。

いい娘だ……。

 

葉月の作った朝ごはんをおいしくいただき、洗い物をした。

「しかし、することがないなあ」

太郎は、圧倒的に与えられた時間にどうすることも出来なくなった。
1カ月前は、全日本大会前の厳しい稽古の疲れを癒す時間も無かったのに。

テレビを付けて見る。
が、平日昼間の番組は太郎を満足させることは出来なかった。

 

「……正宗いるかな」

太郎は、部屋の壁を拳で連打し、ベランダに出た。

 

しばらくすると隣の住まいのベランダに正宗が出て来た。

「ちょっと、太郎先輩、勘弁して下さいよー」

正宗は上下黒のパジャマ姿で、肩口までの髪の毛はあらゆる方向に飛んでいた。

「今日は、オフなんだろ」

太郎にはまるで悪びれる様子もない。

「そっち行っていい?」

「いいっすよ。今、玄関開けますんで」

「いや、こっから行くよ」

「げ」

太郎は、サッシに足を掛け、高層マンションのベランダを移動し、正宗の前に降り立つ。

「む、無茶しますねー」

「そうかな」

 

昨夜、太郎と正宗はさほど長く話していた訳ではなかった。

突然あずさ以外の女性の家に居るとは何か特別な事情があるのだと、正宗は思った。
ただ、12月の寒空の下だったということもあり、挨拶程度で終わっていた。

「おじゃまするぜよ」

太郎はベランダから正宗の部屋に入った。

 

葉月の部屋と同じ間取りではあったが、置いてある家具、備品、そして漂う匂いは女性の部屋のそれとはやはり違う。

それにしても男性の一人暮らしの部屋の割にはきれいに片付いていた。

「正宗、良いとこ住んでるなあ」

「まあ、お陰さまでテレビの出演が増えましたからね」

「ここ、家賃いくら?」

「……いきなり下種い質問ですねえ。……25万です」

「に、にじゅうごまん!  どんだけ稼いでんだよ」

「いやー、結構背伸びしましたよ。敷金気にして、ベランダでタバコ吸ってるくらいですからね」

1年前に出会った頃は泣かず飛ばずの新人芸人だった正宗が。
太郎は、芸能界が夢のある世界だなと思った。

「それにしても、太郎先輩」

「な、何?」

「見ましたよ、全日本!」

葉月の話ではなかった。

「あれ、会場に来てたの?」

「いやー、是非総本山まで行きたかったんですけど、なんせ売れっ子になってしまったんで。スポーツチャンネルで見てました。いやー、太郎先輩カッコよかったですよ。特に、あのヴィンセントとの一戦は、まさに死闘でしたね。そして、板割りの決着!  くうー、感動したわー!」

「あ、ありがとう」

「結果も相馬軍団の独占でしたね。いや本当、俺は凄い道場に行かせていただきましたよ。ロベルトの旦那が優勝で、相馬の兄さんが準優勝。ロベルトの旦那は、ついに師を超えたんですね」

「……ああ」

「どうですか? 皆さん元気ですか?」

太郎は、少し間を置いてから答えた。

「……ロベルトはアメリカに行ったよ。相馬先輩は……失踪した」

「へ?」

正宗は絶句した。

「え、ちょっと、何で? し、失踪? ロベルトの旦那に負けたからですか?」

「相馬先輩の心中はわからない。が、多分そうだと思う」

「…………」

 

長い沈黙。

 

正宗も色々と思いを巡らせているに違いない。

「ま、色々ありますよね」

正宗は相馬のことを悪く言うようなことはしなかった。

正宗はロベルトのことも相馬のこともよく知っている。
少し寂しそうな顔を浮かべていたが、すぐに笑顔を作り、太郎に詰め寄った。

「しかし!  太郎先輩!  先輩は何で、隣のカワイ子ちゃんの部屋にいたんですか? しかもまだいるし。どういうことなんすか? ここはしっかりと聞かせていただきますよ!」

「う……」

「まさか、太郎先輩も板橋道場を出たんですか?」

正解だった。

「出て、あずささん以外の女性の家に転がり込んだんですか?」

これも正解だった。

「太郎先輩!  太郎先輩は普段純情ぶってるから余計にたちが悪い。だってそうでしょう? 昇段審査の時だって、どっかのギャルと神聖な道場であんなおもちゃまで使って暴れてたんですから!」

これは誤解だった。

「俺はね、太郎先輩。遊んじゃいけないなんていいませんよ。俺だって女にモテたくてこの業界に入ったんですから。でもね、あずささんを悲しませたらいけません。あの人は太郎先輩に心底惚れてらっしゃる。一途に。素直に。そんなあずささんを悲しませたら駄目ですよ」

太郎はうつむいたまま言葉を探している。
しかし、探しても見つからない。

「正宗……好き同士でもどうにもならないことがあるんだな。特にこれといった障害がなくてもさ。難しいよな」

「む、ガチな話になりそうですね。まあ、今日は久しぶりのオフ日なんでつきあいますよ。ビールでいいっすか?」

「俺はビールが嫌いなんだ。サワー系無い?」

「か、買ってきます」 

 


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