太郎の選手宣誓の練習が終わり、皆が床に着いたのは午前0時を回った頃だった。
太郎は緊張で眠れる気がしない。

「はああ、どうしよ。俺って本当緊張しーだな」

洗面台に行き、水を飲む。

「ふー……腹減ったなあ」

「じゃあ、シーメーでも行きますか?」

「ぎょぎょ!」

後ろを振り向くと正宗が立っていた。

「お、驚かすなよ! あー、びっくりした」

「太郎さん、この辺にデリシャスな感じの店はないんすか?」

そう聞かれ、ぴんと来た店があった。

「ある……よし、正宗君、行こう」

「おー、いっすねー! つか、俺のことはもう呼びすてにして下さいよ!」

正宗の提案に太郎はドキドキした。
かつて呼びすてで呼ぶような後輩がいたことが無かったからだ。

「よ、よし、じゃあ行くか、正宗」

「ういーっす」

太郎と正宗はそっと(相馬に気付かれないように)部屋を出た。

 

 

道頓堀に近いそのホテル周辺は、深夜にもかかわらず明るく騒がしい。

「くはー、大阪の夜っすねー! ああー、風俗いきてえ!」

「ななな、そ、そんなところには行かないぞ」

「なんすか、太郎さんは風俗に行ったことないの? はあー、駄目だなあ。女っつーのは、覚えるのが遅ければ遅いほどハマるんすよ」

「そ……そうなんだ」

 

 

太郎らは、一軒のラーメン屋に入った。

「ここが美味いんだよ」

「ほー、結構込んでますね。うまそうな匂いだ」

 

太郎は、空いている席に座った。
この店に来たのは三年ぶりだ。
あの時はロベルトとこっそりホテルを抜け出して来た。
そして酔っぱらった宮地に絡まれたのだった。

今回は絡んできそうな奴はいないかと周りを見渡す太郎。
と、隣の席の男と目があった。

「み、水河君?」

「志賀……さん……」

太郎の隣でラーメンを待っているのは元全日本王者の志賀だった。
まともに顔を合わせたのは一年半前の第38回全日本大会以来だ。
その時は三回戦で激突している。
太郎の渾身の胴回し回転蹴りが志賀の顔面を襲った。
見るとその時の傷がまだ志賀の頬に残っている。

元々、二人が初めて出会ったのは、入門してまもない初心者大会の会場でだった。
試合が始まる前に観客席で出会った。

その時太郎は入門したての白帯。
志賀は初出場の全日本でいきなり優勝した日本のエース。
まさに月とスッポンだった。
しかし、今は多少距離は縮まったのかもしれない。

「……水河君も腹が減ったのかい?」

「押忍……緊張で眠れなくて」

「ふふ、僕も同じようなもんだよ」

「え? 志賀選手も試合前は緊張するんですか? しかも今回は体重別ですよ。志賀選手なら余裕じゃないですか?」

「……皆がそう思ってる。だから絶対に負けられないのさ」

「そ、そうですよね」

その落ち着いた回答振りに、太郎は志賀の持つ自信と、背負うものの重さを感じた。

 

しばらくし、三人の前にラーメンが置かれた。
三人は黙って麺をすする。
いつもはぺちゃくちゃとうるさい正宗が静かにしている。

「水河君と……」

「はいっ」

突然口を開いた志賀にビックリする太郎。

「水河君と初めて出会った時のことを……覚えているよ。初心者大会の時だったよね」

「え?」

あの時、あずさにお互いを紹介してもらってはいたが、志賀の記憶に残っているとは太郎には意外だった。

「よ、よく僕のことなんて覚えてましたね」

「……あずささんから聞いていたからね」

「へ?」

突然出たあずさの名前に戸惑う太郎。

「たまに食事なんかに行ってたんだ。あずささんと。…ふふ、必ず美雪さんもついてきたけどね」

そうなのだ。
志賀は、太郎が出会う前のあずさを知っている。
少し胸の辺りがキュッと締めつけられる気分。

「……弟子を取らない相馬先輩が連れて来た男がいると。それが、空手初心者であり、人付き合いが苦手そうな男だと。相馬先輩は、その人のどこを気に行ったのかわからないっ……てね」

「あわ……」

「ふふ、大丈夫。あずささんはもっとやわらかい言い方をしてたから。初心者大会にその男が出場するってんで、どんな人なのか見てみようと思ってね。あの時、僕が先に君を見つけ、近くの席に座ったんだ」

「あ」

太郎は、あの時、志賀と目が会い、視線をそらされたのを思い出した。
まさか、雲の上の存在である志賀から、太郎に近づいてきていたとは。

「そ、そうだったんですね。でも、なんでそんな僕をわざわざ……」

「あずささんがさ……とても楽しそうに君の話をするからさ」

「え……」

志賀は、太郎に顔を向けた。
視線を一度落とし、そして太郎の目を見つめる。

「僕は……あずささんのことが、好きだった。そして、その気持ちは今も変わらない。あずささんは、今まで異性に興味が無かったようだが、時間を掛ければ僕の気持ちは伝わると思っていた。だが、今、あずささんは……」

「……」

言葉に詰まる志賀。
言葉が出ない太郎。
志賀は、空になった器をカウンターに置き席を立った。

 

「分からなかった。何故、君なのか? そして、今、君と話して……申し訳ないが、あずささんと釣り合うような男とは思えない」

 

強烈な言葉だった。
太郎は言葉を失った。

しかし自分にもわからない。
いや今現在、本当にあずさが自分を好きでいてくれているのかもわからない。

自分の目の前に立っている志賀は、さわやかであり、強く、自信に充ち溢れている。
まさにあずさとお似合いの男だ。

太郎は黙っていることしかできなかった。

 

「志賀さん、あんたはわかってない。シガレットのフィルターほども」

ずっと黙っていた正宗が口を開いた。

「あずささんは太郎先輩の事を愛している! 間違いない!」

正宗も立ちあがり、志賀と対峙する。
太郎は動けない。

「俺も最初は太郎先輩のことを特に何とも思っていなかった。だが、今は、俺っちも太郎先輩を愛している! まあ、確かに情けないところもある。自信もなさげだ。だが、空手に対する情熱、俺や道場生達に対する優しさは尊敬に値する! 相対的にしか物事を判断出来ていないあんたにゃわからないだろうがな。愛は方程式では解けないのだ! そんなことだから、あずささんをモノに出来ないんだ!」

正宗は志賀を真っすぐ指さして言い放った。

「あんたには喧嘩じゃ到底かないっこないが、太郎先輩を侮辱する奴は許さないよ」

志賀は黙って聞いていたが、軽くため息をついた。

「……すまない。だいぶ口が悪かった。謝るよ。……情けないな。普段は冷静さを売りにしている俺なんだが……。えっと……」

「俺の名は、スモラバ正宗です」

「ああ、そうだ。テレビの特集見てるよ。君の言うとおりだ。反省するよ」

「わかってくれれば」

「そして太郎君……どうも僕は思ったことをそのまま口に出してしまうようで……すまなかった。よく辻先輩にも注意されるんだ」

「いえ……僕は気にしてないです」

「とりあえず……ここ数年はあずささんと会うことは無くなったから、そこんところは気にしないでいいよ。まあ、とにかく……このケリは試合でつけようか!」

そう言って、志賀は店を後にした。

その場にへたり込む正宗。

「はあー、ビビったー! 彼、さすが全日本王者っすねー! 殺気半端ねっす」 

「正宗ー! お前って奴は!」

正宗に抱きつく太郎。

「ちょっ、俺はそんな趣味な無いっすよ、太郎先輩!」

呼び方が『太郎さん』から『太郎先輩』に変わったことに、気づいていない太郎だった。

 

第25回体重別全日本大会トーナメント表

 


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