第75話  ノンアルコール

 

「ちょっと、ロビーに行ってきます」

「なんだよ、寝れないのか」

「押忍……明日が本番なんで」

「だな……好きにしろよ」

太郎は相馬に許可をもらい、ホテルのロビーに向かう。

 

明日はついに準々決勝だ。
負ければそれまでだ。

大学は留年。
就職活動も全くしていない。

そんな太郎にとって、青春の全てをかけている空手。
その最高峰の大会である世界大会。

今の太郎にとって、世界大会に出場することが、何よりの重要なことであった。
自己を証明する唯一のアイデンティティー。

 

ホテルの一階にあるロビーに着いた太郎は、ソファーに座りトーナメント表を眺める。

「準々決勝は百瀬選手か。そして、準決勝はおそらく青山選手だ」

百瀬とは、神覇館総本山に赴いた時に何度か世話になっている。
太郎がかろうじて準々決勝に食い込んだ前々年度の東京都大会で、百瀬は準優勝を飾っている。

青山を初めて見たのは、同じ東京都大会の五十嵐戦だ。
負けはしたものの、五十嵐をドクターストップに追い込んでいる。
そのおかげで、太郎は体重別全日本大会に出場できたのだ。
ある種の恩人でもある。

そんな格上な空手家であった二人も、明日は必ず倒さなければならない相手だ。

「そして・・・・・・」

ゼッケン64番、辻巧。
軽量級無敗の男。

全く勝てるイメージがわかない。
だが、対策はしてきたつもりだ。

「相馬先輩に上段回し蹴り対策を散々やってもらったからな。突然の上段やコンビネーションからの攻撃も」

辻は、ディフェンスをほとんどしない。
上段回し蹴りさえ喰らわなければ、勝算はある。

だがしかし。

 

「相手は、辻選手だもんなあ。はああ・・・・・・」

「きっと、大丈夫だよ。たくさん練習したもん」

「へ?」

太郎が後ろを向くと、あずさが立っている。

「あ、あずさ先輩」

「ふふ、偶然」

そう言うと、あずさは太郎の隣にちょこんと座った。

「寝れないんだね、でもちゃんと寝ないと駄目だよ」

「は、はひ」

太郎はびっくりすると同時にはっとした。
相馬のお供で大会に出向く時も、自分の出場する大会であっても、常にあずさのことが頭の大半を占めていたハズ。

それなのに、今大会中、あずさの事をほとんど考えることはなかった。
今は、明日の試合の事で頭がいっぱいだ。

それだけ空手に没頭していたということだろうか。

 

と、あずさは太郎に体重を預けてきた。
突然のあずさの行動に、太郎は声が出なくなった。

「タロちゃん」

「は、はひ」

そして、あずさは腕を絡ませてきた。

「私ね、男の人を好きになったことがこれまでなかったから……好きってことをどうやって表現したらいいか良く分からないの」

「は、はひ」

「もう20歳過ぎてるのに、恥ずかしいよね」

「い、いや、そんにゃ」

むしろ嬉しい太郎であった。

「でもね……たぶん、こうやってくっついてるだけでもいいんだよね。伝わってるよね」

太郎の鼻をシャンプーの良い匂いがかすめる。
なんという幸せ感であろうか。

太郎は自問する。
自分はあずさにちゃんと愛情を伝えているのか。

いや、していない。

緊張や、嫌われたくないという恐れから自分からあずさに近づこうとしていない。
太郎は何だか情けなくなってきた。

「す、すいません。僕なんて、女の人に好きになってもらったことがなかったので。そ、その、嬉しいです」

「タロちゃん」

「だ、大好きです。あずさ先輩のことが」

そう言って、あずさにキスをした。
今度はお酒の力を借りていない。

果てしなく柔らかいあずさのくちびる。

 

 

気が付くと、太郎は自分の部屋の前に立っていた。
夢のような空間であった。

「はああ、なんという甘い世界なんだ」

そんな太郎は、明日、青春を賭した戦いに挑むのだが。

太郎が部屋に戻ると、ロベルトのいびきが聞こえた。
岩村も寝ている……が、相馬の姿が見えない。

「う! 先輩がいない……」

太郎の心臓が高鳴る。

「ま、ままま、まさか……見られていないよな。さ、さっきのちゅちゅちゅーを。こ、殺される。世界大会どころの騒ぎではない!」

ガチャリという音とともに、ゆっくりドアが開き、相馬が戻ってきた。

「は……は……ふ」

太郎は呼吸が上手くできない。

「あ? 何だよ? ラマーズ法か?」

相馬は頭を掻きながらベッドに向かった。

「はう、ふ、ふふふは」

「なんだ、うるせー野郎だなあ。早く寝ろよ」

そう言うと相馬は横になり布団をかぶった。
太郎は大きく深呼吸をした。

「(み、見られてないみたいだな……ば、場所を選ばないといけないな。そ、そうだよ。俺があずさ先輩にうまく表現が出来てないのは相馬先輩がいるからだよな。きっと。だって、絶対殺されるもん)」

太郎はほっとした。
今夜は安らかに眠れそうだ。

 

第24回体重別全日本大会途中経過

 


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